多忙な1週間

2008年8月29日 読書
お盆が終ったと思ったら、一挙に多忙。
ろくに本も読めない1週間でした。
それでもなんとか、佐藤卓己「八月十五日の神話」は読了。
大変勉強になりましたが、もう少し文章と構成が上手ければ面白く読めたのに。ぶつぶつ・・・

疑問形で終る文章、「・・・ではないだろうか」「・・・ではあるまいか」が少し多いように思いました。

購入本2冊

2008年8月22日 読書
アマゾンから本が届く。

佐藤卓己「八月十五日の神話」ちくま新書
佐藤卓己・孫安石編「東アジアの終戦記念日」ちくま新書

佐藤卓己の著作を読むのは初めてです。
降伏文書に調印した9月2日ではなく、8月15日が「終戦記念日」になっているのはなぜか。

著者は、そこにメディアによって作られた「物語」をみているらしい。

まずは読んでみましょう。
K.マルクス「ユダヤ人問題によせて」(岩波文庫)を読む。時速20キロでドライブしているような、鈍行読書だ。内田樹の「私家版・ユダヤ文化論」もあわせてパラパラ捲る。なんか、幸福である。

とりあえず、読んでいても眠くはならない。理解できているかは心もとないが、大マルクスの文章にワタクシの愚能が駄々を捏ねていないことは確からしい。

本日の購入本

2008年8月15日 読書
ジャーナリズム崩壊 上杉隆 幻冬舎新書
ユダヤ人問題によせて 他 K.マルクス 岩波文庫
現代思想総特集 吉本隆明 

私の本棚の片隅には、大月書店版『資本論』5巻が、世を忍ぶようにひっそりと収まっている。
購入したのはもう30年も前の話だ。最初すぐ手の届くところにあった同書は、書棚整理のたびに私の側から離れ、今では踏み台を使わなければ手の届かない位置に遠ざかってしまった。

かの本を何度手に取ったことか。そのたびに、まあ、あの小説を先に読んでから、ということの繰り返しで、今に至っている。
ちくちくとささる棘のように、気にはなっているんですけどね。

そんなわけで、大著に挑むきっかけになればと思い、「ユダヤ人問題によせて」を買ってきた次第。本当は「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」が読みたかったんだけど、手に入りませんでした。

で、まずは先にこいつを読もうということで、阿部和重「インディビジュアル・プロジェクション」を読んでます。
内田樹「こんな日本でよかったね」(略して「こんたね」)読了。
今更ながらに、ウチダ先生は構造主義者だったんだなあと、妙に納得する。

冒頭の言語論も面白かったが、ウチダ先生の面目が活き活きと踊るのは格差論、少子化論、フェミニズム論あたりだろうか。ワタクシ的には、政治運動についての文章が強く印象に残った。

ウチダ先生によれば、政治運動というのはその殆どの期間が退潮期なのであって、それを最後まで看取る人(先生言うところの「雪かき仕事」ですか)がいることが肝心なのだという。なるほど。これは政治運動だけではなく、様々な組織活動、運動についてもいえることだと思う。

私もかつていくつかの文化活動にかかわった経験がある。たとえばその活動期間が10年間であったとする。実際のところ最も盛り上がるのは2〜3年目あたりで、あとはひたすら右肩下がり、シャッター通りの中で細々と商売しているタバコ屋みたいに、閉店のタイミングを窺い続けるような有様になるのが常である。

私の場合、特に高潔な義務感に駆られたというのではなく、単に逃げ遅れたために組織体や運動体の沈没に立ち会う羽目に陥ったことが、何回かある。

ひどいものである。活動の最盛期には50人を数えたメンバーがぱらぱらと抜け落ちて行き、気がつくとガラガラ。2リットルのペットボトル一本あれば、メンバー全員にお茶が行き渡るような惨状に至る。その過程で、ケンカはあるわ約束破りは横行するわ、金のトラブルは起こるわで、もうへとへと。何のためにこんなことを続けているのかと、自問はするのだが何故か止められない。まあ10年間は続けましょうよ、などという話に大概はなって、最後の3年くらいは感動も喜びも無く、ただただ消耗するばかり。

ウチダ先生の決まり文句を借りるならば、「そういうものである」。

でも、沈没船に居残っているとひとつだけよいことがある。それは、「仲間ができる」ということだ。最後まで残った十指に足りない連中こそ、「本当に信頼するに足る仲間」であって、そういう仲間を10人持つと言うことは、実際、得がたいことである。

「同志」などという言葉は、今の時代流行らないかもしれない。でもタバーリッシ、うーむ、なかなか捨てがたいものですよ。

内田本読書中

2008年8月5日 読書
内田樹「こんな日本でよかったね」をたらたらと購読中。
感想は読後に。

購入本

2008年8月1日 読書
なにかと気ぜわしい日々が続いています。
お盆あたりまで、忙しいわけではないのになんか落ち着かない、という日常になりそうです。

さて、本日アマゾンで注文していた本が到着。
内田樹  こんな日本でよかったね
吉本隆明の声と言葉(CD付き)
東京2時間ウオーキング 銀座・日本橋編

かつて東京の場末で暮らしていた頃、銀座や日本橋は全く縁のない街だった。銀座は単に地下鉄の乗換駅だったし、日本橋と東京駅の位置関係すら知らなかった。

最近は年を喰ってきたせいか、東京に行くたびにこの二つの街を歩く。お気に入りなのである。
そのかわり、今をときめく六本木とか赤坂にはまず行くことがない。

銀座はもちろん私には全く縁のない店が多いが、でも1000円で老舗の天丼が食えたり、コロッケパンの美味しい店があったり、意外に庶民的な面がある。
日本橋も結構和む街だ。私は酒が飲めないので、東京に行くと晩メシの適当な店がなくて困ったりする。そんなときは、高島屋とか三越の地下にもぐって、木村屋の食パンと今半のメンチカツとたいめいけんのコールスローを買い、ホテルでサンドイッチにして食う。1000円でお釣りがくる。吉牛よりは美味いと思う。

そんなわけで、内田・吉本のお気に入りと一緒に、銀座・日本橋本を買ったのでありました。

牛の歩み

2008年7月29日 読書
丸山眞男『日本の思想』(岩波新書)?「近代日本の思想と文学」を読んでいるが、遅々として進まず。勘弁してください、と言う感じです。

昭和文学史

2008年7月25日 読書
昭和文学史 平野謙 筑摩叢書

ちょいと方向転換。
なんでこんな古い本を読んでいるかと言うと、
とあるチャット読書会で、丸山眞男『日本の思想』を読んでおりまして、その中に昭和10年前後の文学界の動向について述べた、有名な文章があるのです。

これがまた、私の石頭では何度読んでもよく分からないシロモノで、少しこの時代の文学状況を復習してから読書会に臨もうと考えたわけですね。

しかし、どうもドツボに嵌ったような気がしています。
平野の本を理解するためには、小林秀雄を読まねばならない。当時の小林の立ち位置を理解するには、正宗白鳥だの横光利一だの戸坂潤だのを読まねばならない・・・

まあ一応潜れるところまで潜っては見ますが、息が苦しくなってギブアップするのは目に見えてます。

読書会でも、最後は「シロートなのでわかりましぇーん」と言うことにしています。

論文読み

2008年7月23日 読書
漱石関係の文献から、『明暗』に関するものを拾い読み。
『国文学』の漱石特集を時代を追って読んでいます。

うーむ。このあと『門』を読むか、江藤淳『漱石とその時代』全五冊を、気合を入れて読むか。
それとも、暑くて集中力散漫になっているので、方向転換を図って時事モノに走るか。

あ、そういえば阿部和重「インディビジュアル・プロジェクション」が手に入ったんだ。これかな。

節操のない読書

2008年7月21日 読書
保坂正康 東京裁判の教訓 朝日新書
中国性史 陽根譚 徳間文庫

あまりに節操のない読書をしている気もするが、どちらも面白いです。

何を読んでも面白いというのは、いい傾向です。
何を読んでも面白くないときは、要注意。本がつまらないのではなく、当方がつまらない人間になっています。そういうときは、音楽を聴いて気分を入れ替えます。

明日からまた漱石を読もうかな。『門』とか。

『続明暗』

2008年7月20日 読書
水村美苗の『続明暗』をパラパラとめくる。
文体模写というのは、難しいですね。ところどころに現在終止形が出てきて、あれっと思ってしまう。

漱石の文体を模写するには、大変な知識が必要だ。漢語もヘタに使うと取って付けたようになってしまう。奥泉光の「『吾輩は猫である』殺人事件」を読んだとき、いかにも漱石らしく見せようとしている箇所が、かえって浮いているように思った。

『明暗』は漱石の死によって中絶したため、結末を巡って様々な推論がなされてきた。中には、お延が小林と駆け落ちして朝鮮に渡る、などという仰天ものの推論もある。論者それぞれが、結局は自分の漱石像を語ることになる。

私は素人なので、推論いたしません。

さて、明日から何を読もうかな。

服装の歴史

2008年7月19日 読書
『明暗』読了。
集英社版の全集で読んだので、荒正人の解説やら注解やらも読みました。

この小説、中々話が進まない。漱石言うところの「囚われた」人間たちが心理戦を繰り広げ、地の文がそれを解説する。「螺旋的」とか「同心円を描くように」とか評されている、この小説の特徴である。私はこれを「影踏み的」と勝手に名づけたい。頭の影が見えているので、それを踏みつけようとすると、影はひょいと離れてしまう。その繰り返しで、頭が踏めないうちに、少しずつ話が前に進んでいる。ある意味、じれったい。

身も蓋もないことを言ってしまうが、これは新聞小説であるがゆえの、漱石の読者獲得作戦ではないかと、勝手に考えています。

そこに「清子」という天然系の女性が登場し、展開が直線的になろうとしたところで、絶筆となっている。

久しぶりに漱石的世界を堪能致しました。

で、和服の描写が理解できなくて悔しかったので、村上信彦「服装の歴史」(理論社)と、「きもの文化史」(朝日新聞社編)を読んでおります。

読書中

2008年7月17日 読書
『明暗』読書中。
今日中には読了する予定。

分からない文章

2008年7月15日 読書
漱石『明暗』読書中。
『明暗』を読むのは、多分これが3回目。10代と30代にそれぞれ読んでいる。
感想は読了後に書くとして、悔しいけど以下のような文章がやっぱり分からない。

白縮緬の襟のかかった襦袢の上へ薩摩絣を着て、茶の千筋の袴に透綾の羽織をはおったその拵えは、まるで傘屋の主人が町内の葬式の供に立った帰りがけで、強飯の折でも懐に入れているとしか受け取れなかった。

これは確か、弟子の鈴木三重吉かだれかがこの格好をしていたのを、小説に使ったものだったと思う。

白縮緬の襟のかかった襦袢の上へ薩摩絣

というのが、まるっきり想像できない。だからそのあとの文章も、字面を追うことしかできない。多分、当時の人ならクスクス笑う場面なんだろうけど。

他にも、いろいろ当時の風俗を伝える描写を発見。面白いです。

気分を変えて

2008年7月14日 読書
今日から漱石の「明暗」を読む。

学生だったら徹夜して一気に読むところだけど、
それができないのが、賃金労働者の悲しさです。

ということで、三日くらい読書に集中。
カラヤンとフルトヴェングラー 中川右介 幻冬舎新書

いやあ、面白い。
この本、カラヤンとフルトヴェングラーの指揮を比較したものではない。つまり、音楽の本ではない。

ベルリンフィル首席指揮者の座にあったフルトヴェングラーの、カラヤンに対する嫉妬、カラヤンの巧みな処世、牽制し反目しあいながら、演奏の機会を失いたくないばかりに、ナチス体制に組み込まれていった二人。それに絡む新進気鋭のチェリビダッケ。

クラシック界のビッグネームが、政治に翻弄されながら策略をめぐらし、暗闘する様が描かれる。どろどろです。

ここにトスカニーニ、ベームなどの名前も出てきて、ヘタな小説よりはるかに面白い。芸術家の嫉妬心って、凄まじいんですね。

ところで、この本に出ているフルトヴェングラーのベルリンでの戦後最初の演奏。これはナチ協力疑惑によって音楽界を追放されていたフルトヴェングラーが、やっと復権を果たしてベルリンのティタニア・パラストでベートーヴェンの田園、5番などを振ったもの。

この「ティタニア・パラストのベト5」は、もの凄いです。カラヤン好きの友人は、このレコードを聴いて3分くらいで「分かったから、もう止めろよ〜」と叫びました。私は大好きなんですけど、この演奏。

ラッパは飛び出す、ティンパニは発狂状態、ラストはオケがテンポに付いていけない。でも熱気だけは凄い。何度聴いても圧倒されます。さぞかし聴衆の熱狂も凄かったんでしょうね。

ナポレオン自伝

2008年7月12日 読書
ナポレオン自伝 A.マルロー編 朝日新聞社

古本屋で偶然発見しました。
2004年に3200円+税で発売されたものが、
なぜか1000円を切る値段で、タレント本とかと一緒に積まれていました。これは、即買いでしょう。

ナポレオン自身が残した日記、手紙、断片を、マルローが編年で採録したもの。

私は特にフランスの歴史に関心があるのではなく、チーズを食ってジョゼフィーヌを思い出したという、例の逸話が読みたいだけなんですが、今のところまだその文に出会っていません。
先生はえらい 内田樹 ちくまプリマー新書

以前買って、読みそびれていた本です。
中高生のときにこういう本に出会うってのは、どんな感じなんでしょうか。

私らがその年代の頃って、こういう「目からウロコ」本はあまりなかったような気がします。

私は小学校卒業の際、担任の先生から「中学校に入ったら、阿部次郎の『三太郎の日記』を読め」との言葉を贈られました。
はい、すぐに小遣いはたいて買いました、『三太郎の日記』。
でも、未だに読んでません。スミマセン、○○先生。

洲崎パラダイス

2008年7月10日 読書
芝木好子 洲崎パラダイス 集英社文庫

映画にもなった芝木好子の名短編。
芝木の小説は艶があります。

洲崎は今の東陽町あたり。湾岸開発で高層マンションが建っている。昔はこんな街だったんですね。

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